【暮らしの保健室 秋山正子さんインタビュー第2回】秋山さんの人を巻き込む魅力のルーツ

 

前回の第1回では、「患者さんにとって本当に必要なことかどうか」という、秋山さんが大事にしている自身への「問いかけ」を伺うことが出来ました。

この第2回では、そんな秋山さんの過去に迫りたいと思います。

特に、秋山さんの「人を巻き込む魅力」、そして「なぜ巻き込むことが出来るのか」という点に注目してご覧頂きたいと思います。

 

秋山正子、訪問看護師

 

秋山さんの看護師としての原点は、父を看取ったこと

 

――これまで現在のご活動をお聞きしましたが、ここからは「なぜ現在の活動をしているのか」「どう結びついているのか」という部分をお聞きしたいと思います。
もともと看護師になろうと思ったきっかけはなんですか?

 

高校1年生(16歳)の時に、父親をがんで亡くしていることがきっかけです。

がんに罹(かか)った父は、家で亡くなったのですが、私は当時何も知らされていませんでした。

そうして私が何もできないまま父は亡くなったのです。

 

父が亡くなってから1か月くらいした時に、母親から「実はがんだったんだよ」と聞かされました。

それを聞いた私は、「そのことを知っていたらもっと何かできることがあったんじゃないか」と思いました。

このことをきっかけとし、他の人のケアができる看護の道を選び、進学しました。

 

進学した頃はちょうど第2次ベビーブームの時代で非常にお産が多かったこともあって、最初は助産師として臨床を行いました。 *

 

* 秋山さん曰く、「当時は少し余分に勉強すれば看護師だけではなく助産師の試験も受けられた」ため、看護師、助産師、保健師の3つの国家試験を受けられたそうです。

 

また、当時は四年制の大学になっている看護の学部が全国で11しかない時代でしたから、四年制大学を卒業して看護師に就くのは一般的ではありませんでした。

ですので、四年制の大学を卒業した私に教員の誘いがありました。今は大学院に行っていないとなれませんけれども。

それ以後、看護教育の場で臨床実習指導の教員として働き始めました。

 

――ではもう20代始めの時から教職の場にいたということですか?

 

「教職」ではあるのですが、臨床実習の場に出ることが多かったので、臨床経験をしているような形です。

今では「教員」というと大学の教室で教えているという印象ですけども、私の若い頃の経験は病院の中での実習指導で、現場に出るものでした。

 

秋山さんが在宅の道に進んだきっかけは、実姉のがん

 

――在宅の領域へと足を踏み入れることになったきっかけはどのようなことでしょうか?

 

先ほど申しましたように病院の中で実習指導を続けていた私ですが、1989年、私が39歳で姉が41歳の時のことです。

京都にいる私のもとに、神奈川にいる2つ上の姉が末期の肝臓がんで余命1カ月という知らせが届きました。

姉のがんは一気に広がったようでした。

そんな姉を、病院でなく家に連れて帰って看ることになりました。

 

その当時、在宅が全く普及していない状態でしたので、訪問看護や訪問診療がほぼない時代です。

京都にいた私は、神奈川の姉の在宅ケアに際し、いろんな方々に協力してもらって、チームを組み立てたんです。

その結果、余命1か月と言われたことに反して、最終的には5カ月生きて亡くなりました。

それは、単に寿命が伸びただけという訳ではありません。

姉は、中学2年生と小学5年生の子ども2人の面倒を見ながら療養することができました。

 

その時、母親としての役割を果たしながら療養していた姉を目の当たりにして、「これからは在宅の場で、ある意味で重篤な状態だけれども、家で過ごしたいという方が増えていくのではないか」「そうしたニーズは多いのではないか」と思うようになりました。

 

――そこで、訪問看護の道に進まれたと。

 

そうです。

 

秋山さん「独立」のきっかけ

 

――それから約10年が経った2001年には独立されていますが、それはどういった経緯からでしょうか。

 

2001年に、一緒にやっていた母体の医療法人が閉じることになりました。

閉じるといったら普通は(会社を)辞めるのですが、目の前に訪問看護の利用者さんがいたので、閉じるわけにはいかなかった。

そういうわけで、独立しました。

やむにやまれない事態で次の一歩を踏み出し、あとから考えるとそれは「成功」だった。

 

一見自分から開拓したように見えるんですけど、やむをえない事情でそうなったんです。

辞めればよかったんだし、そこまで思い入れがなくてもいいように思うかもしれませんが、目の前に必要としている人がいて、病院外でも看護を待っている人がいるのはいつも変わりません

そこで、自分が出ていく際に1人ではできないので、周りを引き込み、仲間のネットワークを作っていきました

 

――実際に目の前に課題があるだけなんですね。1992年の訪問看護開始の当時は、利用者さんからケアの提供をお願いされる声は多かったのですか?

 

そうですね。訪問看護事業をやっているところが少なかったので。

ただ、最初は広い地域を対象としていたので、すごく遠いところにも行っていました。

 

――訪問看護の制度が始まったばかりで、利用者さんも(訪問看護の)存在を知らなかったのではないですか?

 

結構先駆的なことをしている診療所の先生たちがメディアに取り上げられたり、私たちもドキュメントで密着取材をうけたりしていたので、新聞で見たり先生の本から知ったりしていたのだと思います。

利用者さんがいないということはなかったですね。

 

社会的には、訪問看護ステーションの制度が1992年にできて、しばらくは訪問看護ステーションは流行らない、利用者がいない、看護師を雇うのも高いということで、あまり増えませんでした。

しかし、2,000年の介護保険制度制定のちょっと前の、平成10年くらいから急激に増え始めました。

そこからは私たちも地元密着の新宿を中心とした訪問看護に変わってきました。

 

――それからは遠出をすることは少なくなってきたと。

 

そうですね。

今は、アスベストによる中皮腫など、悪性度の高い病気にかかった方のもとには特別に訪問しています。ただ、早めにわかれば治療方法もいろいろ出てくるので、場合にはよります。

 

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