田村恵子先生のインタビュー第2回です。
前回の第1回インタビューでは、田村先生の現在のご活動について伺いました。
京都大学でのご活動、「ともいき京都」でのご活動、そして小児に関するご活動など。
今回は、下記のような内容を収録しております。
- ・なぜ田村先生が京都大学の教授に就任されたのか?
- ・田村先生はなぜ「現象学」にご興味を持たれたのか?
- ・田村先生の人生を変えた?! 全身が震えたある言葉とは?
実践者であり研究者でもある田村先生の含蓄溢れるお言葉の数々。 是非ご覧ください!
田村恵子先生プロフィール
≪ご経歴≫
1978年 四天王寺女子短大保健学科卒
1980年 高槻市医師会看護専門学校卒
1987年- 淀川キリスト教病院勤務
1990年 佛教大学社会学部社会福祉学科卒業
1996年 聖路加看護大大学院前期博士課程修了
1997年 がん看護専門看護師取得
2006年 大阪大学院医学系研究科博士課程修了(医学博士)
2008年 NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」
2012年 ドラマ『奇跡のホスピス』でモデルに
2014年- 京都大学大学院医学研究科人間健康科学系専攻 緩和ケア・老年看護学 教授
≪ご著書≫
・『余命18日をどう生きるか』(朝日新聞出版)
・『また逢えるといいね ホスピスナースのひとりごと』(学研)
・『看護に活かすスピリチュアルケアの手引き』(青海社) など
田村恵子先生が京大教授になった理由
—―現職には公募で応募されたと伺っています。その思いや意図はどのようなものだったのでしょうか?
お声をかけて頂いたというのが直接の動機です。
何年か前から何度かお声はかけて頂いていたのですが、それまで、自分としては「このまま臨床で最後まで頑張るぞ」と思っていて、本当に教員になるつもりが全然無かったんです。
そのうえで、最初のきっかけとしては、「勤務先の病院が新しくなったこと」にあります。
組織自体の利益追求の姿勢が以前より色濃くなったんです。それはもちろん企業なので必要なことだと思うのですが。
そもそも淀川キリスト教病院は、看護師さんたちがプライドを持って働いている病院。
「医師ではなく看護師が病院を支えてる」と。私もそのようにして育てられ、そのように思ってきました。
ですが、新しい病院の計画が進み、「看護」が大事にしてきたことが、ちょっと上に上手く伝わりにくくなりました。
私自身にも色んなお役が来るのですが、そこに出れば出るほど、「根本的に価値が違う」と思うことがあって。
それで、「本当にこのままここで働き続けることが、『患者さんたちを看たい』という私がこだわってきたものと一致するか」と言われるとクエスチョンな部分が出てきました。
ただ、病棟の責任者でもあり、スタッフたちの今後もありますので、すぐにアクションするわけではありませんでした。
そして、病院が2012年にホスピスを独立型にしたんです。
それまでは、「診断時からの緩和ケアをしながら、一方では症状が悪い人も看る」という、現在国が求めているような緩和ケアのあり方を模索していたのですが、「それは止(や)めようよ」という姿勢なわけです。
独立型になるということは、長期で少し高齢者の人を長く穏やかに看ていこうということなので。
私自身、「これまでやってきたホスピスケアの大きな流れとは違うな・・・」と思いましたし、がん患者さんは本院に行ってしまい、全く離れてしまうわけです。
そうすると、そうした方々のフォローをするのが物理的にままならなくなるんです。
それで、私も含めホスピスで働くスタッフみんなが、「病院の今後の方向性とがん看護の延長上でエンドオブライフの人も看たいのか」それとも「ホスピスケアという形で亡くなる人だけを集めた施設で看たいのか」、それぞれの道を決めることになりました。
私もその時にいろいろ考えて、亡くなる方のケアは私にとってすごく大事なものだけれども、一方で、「がんが分かった時点から関わっていくことはすごく重要である」と強く思っていたので、結局は本院に移ることになりました。
すると、経営の荒波をまともに受けることになりました。私たちの部署はお金を生み出さないので。
そこで、「これはなんとなく違うな。。。」という想いがあったというのと、
それこそ「ともいき京都」は大学に来てから始めましたが、そうした取り組みを病院の中でやりたいという想いが生まれ、付加価値を生み出したいと思うようになって。
それこそマギーズのようなものですね。
「がん診療」をウリにするのであれば、付加価値を作っていかないといけなかったんです。
というのも、淀川キリスト教病院というのは周りに大きな病院がいくつもあることから、なかなか先端医療を出来る立地ではありません。
また、以前は「ホスピス」が付加価値にあたる部分だったのかもしれませんが、独立させて別のフラッグを立ててしまったのでそれはもう無理でした。
だからこそ、がんの患者さんたちを集めたいなら、付加価値の部分をどうするかが大事だ、と。
ですので、本当にたくさんの書類を書いて、提案しました。
私自身やっていく自信がありましたし、スタッフもそのように育ててきた自負があったので、「医師は分かりませんけども、看護はスペシャリストが揃っています」と。
医師の中には協力してくれる方がいましたが、結局のところお金を生み出さないのでボツになってしまいました。
そこで、「これは病院では絶対できないことやなぁ・・・」ということが分かり、その時はがん相談支援センターで働くことになりました。
それはそれで楽しく働けたのですが、一度そうしたことを考えてしまうと、施設を越えた働き方がすごく魅力的に思うようになっていて。
そうして悶々(もんもん)としていた頃に、京都大学から再度お話を頂いたんです。
そこで、「それなら一度話を聞いてみようかな」と思ったのが2つ目のきっかけですね。
もちろん、教育することは嫌ではなかったのですが、学生さんの教育をびっしりしたことが無いので、イメージが湧かないわけです。
ただ、私1人では10人くらいの患者さんを看るので精一杯だから、私と同じように出来る人が20人30人といたら、患者さんは「ねずみ講」式に増えていくじゃないですか。笑
それはすごく魅力的だなと思って。
ですので、
・教育によって同じようにがん看護に関心を持つ看護師さんを育てたいと思ったこと
・地域を含めて広くがん患者さんのサポートを出来る場を作っていきたいこと
・それから、研究自体は私は嫌いではなかったので、研究をしていかないと「看護」という仕事がいつまでたっても世の中に伝わらないという思いもあったこと
主にこれらの3つの理由から、大学に移ることにしました。
—―「京都大学での研究」という点に関してはいかがでしょうか?
これは笑い話のようですが、大学に来る前に色んなことをお尋ねした際に「NPOを作ったら私はどうなるんですか?作ってもいいんですか?」と聞いたことがあって。笑
すると、「NPOを作ってもいいですよ」と。「ただし、大学に事務局は置けないですよ」「兼業届を出してもらう必要はあります」といった形できちんとお答えいただけて。
それなら逆に、活動できる場所が広がる可能性があると思ったんです。
今は独立行政法人になっていますが、以前は厳しかったじゃないですか?笑
それに加えて、やはり社会に対する影響力が大きい、私が新しい取り組みをした場合に色んな方から関心を寄せて頂ける、というのもポイントでした。
少し話は前後してしまうのですが、これまでは、看護の先生方が大学に移ると臨床に出られないという状況がありました。
「看護は実践の科学」と言っている割には、「実践」なく発展することになります。
そのことには非常に矛盾を感じており、その部分の働き方を変えるモデルになることが出来ればいいなと思っています。
—―先ほど仰っておられましたが、「緩和ケア・老年看護学」というのは田村先生一人だけだと。東大にもないのでしょうか?
東大にもないですね。
—―そしたら、田村先生が発信していかれるというのは非常に重要ですよね
そうした意味でよくよく考えると、CNS(※がん看護専門看護師)になったときも先輩がいない状態だったので、「そういうめぐり合わせなんやな」と思って、近頃開き直れるようになりました。笑
今までは「苦しい」と思っていたんですけれども。
—―どういうところが苦しかったですか?
やっぱり日本の社会は、モデルがあって「あんな風にしますよ」と言うと、「そうですか」と納得してくれやすいんです。
新しいことをしてそれが受け入れられるまでの間は、「新しいこと」にはあまり価値は無くて、新しいことが「根付いていくこと」が重要なんです。
ですので、根付く・認めてもらえるまでは戦いですよね。
特に私の仕事は人と人とのつながりで出来る仕事なので、すごく難しいです。
—―いやー、そこが一番難しいですよね。。。何かコツのようなものはありますか?笑
私の場合はたくさん失敗をして、「ここまで言ったらだめなんだ」という部分が分かっていった感じです。
私は自分でこうと思ったら行動に移していくタイプなので、私自身の価値観で他の人をみてしまったときに、「もうちょっと時間かけないと」「私と同じペースではダメなんだ」といったことを、色んな人から教えてもらって工夫をしていくことが大事ではないかと思います。
田村先生の他人との接し方に関する変化
—―今のお話からすると、田村先生自身が昔と比べて「変わっていった」ということでしょうか
変わっていったと思いますね。
もともとは合理的に考えて動くタイプですし、決めたことをきちっと出来ないと嫌なタイプで、四角いところはきちんと四角くないと嫌だと思っていました。
でも今は、四角いところがある程度丸まっていても、「おぉ、まん丸やん」「形変わってるやん」と笑いながら言えるくらい平気になりましたね。笑
—―それは経験がそうさせた、と。
そうですね。
特に私の場合は途中から「哲学の世界」に飛び込んだので、それは大きいかと思います。
「看護を他の人に伝えるためには、いわゆる自然科学では限界がある」と考え、私は「その答えが現象学にあるんじゃないか」と思ってその世界に飛び込んでいきました。
でも、そこの世界には特有の「言葉」や「文化」があり、全然違うわけです。
飛び込んだ当初は、「本当にやっていけるのか?」とすごく不安に思っていて、さっぱり分からないところからのスタートでした。
その世界では、私のことを分かってもらったり、病院で患者さんに今どんなことが起こっているか、看護師が何を考えているのかなどを根気強く言葉で伝える必要があり、非常にトレーニングになりました。
本当に、1年から2年くらいはさっぱり分かりませんでしたね、、、「この人たちは何を考えているんだろう?」と。笑
また、その「世界」に入る時に、スイッチを切り替えてなんとか話が出来るようになるには、さらに1、2年かかりました。
4、5年した頃に、ようやく「スイッチ」が無くても自然と切り替えられるようになり、その輪の中で話せるようになり、その世界にふさわしい言葉遣いが出来るようになりました。
その場は、私がそれまで持っていた価値観が変えられていく場だったので、それとともに私の性格や時間の流れ方が変わっていったように思います。
初めの頃に私が1人よがりに話をしてみんながポカーンとしていると、「なんでこんな簡単なこと分からへんの!?」と思っていましたからね。笑
現象学に興味を抱いた理由とその用い方
—―他人に伝えるツールとして(非常に難しい)現象学を選んだのはどうしてでしょうか?
ある言葉との出会いがきっかけで、鷲田先生の門を叩くことになりました。
それは、柏木先生と鷲田先生の対談、、、『看護技術』*という雑誌なんですけれども、その対談で出てきた言葉でした。
* 『看護技術』のバックナンバーは<こちら>から
私が大学院を修了してキリスト教病院へ復職しましたが、なにかこう「もわー」っとした状態で、色んな人に「私はどうしたらいいの?」と聞くような状態だった頃です。
その時、これはもう直感ですが、そのモヤモヤの答えはなんとなく「哲学にある」と思っていました。
そうしている時、図書館で柏木先生と鷲田先生の対談が載っていた本を読んでいると、鷲田先生がこうおっしゃっていたんです。
医療者が痛みを取ることが大事だと思っているのは、痛みは人を現在に閉じ込めるからではないか
もう私はこれを見て、全身“さぶいぼ”で。笑
「いやー、すごい! こんなことを考えられる人がいるんだ!」と思ったんです。
私はずっと医療者の立場なので、「痛いことは苦しいこと、つらいこと。だから、和らげるのは医療者の務め」。これは医学的には間違っていないと思うんですけれども。
ただ、「痛みがあると人は思考が『イマ』という時から離れないでしょ?」「だから医療はみんな痛みを取り除いてるのではないですか?」と。
もう本当に金槌で頭を叩かれたようにガーンと来て。
それですぐに、キリスト教病院に回診にこられていた柏木先生に紹介を頼んで。笑
すると、「田村さんはどうしたいの?」と聞かれたので、こう答えました。
「この言葉にとにかく全身さぶいぼでした。そして、私は聖路加まで行ったけど、残念ながらこうしたことを考えたことがありませんでした。でも、私たちがする行為の目的というのは、本当はこういうところにあるんじゃないか?と思い、びっくりしたんです。だから、私たちの行為の本質までは考えられていなかったと思うので、ここで勉強したいと思いました。そして、可能であれば看護に関して論文を書いてみたいんです。」
すると、柏木先生は「分かった」と言ってすごく快く引き受けて下さり、手紙も書いてくださって。私はそれを後生大事にして、鷲田先生のところに郵便で送ったんです。
これが鷲田先生、そして現象学との出会いでした。
なお、その当時の私の具体的な心境としては、エンドオブライフの人たちがより良くなっていくということはアウトカム(結果)として無いにも関わらず、そこには歴然として「看護」があり、また「そのことにも意味がある」ということを伝えるのがとっても大事なことだと思っていました。そして、その方法論としては、ある意味「これしかない」と思っていたんです。
今だと看護の中で現象学を使ってとなると、「方法論的にどうか」ということになるのですが、それはちょっと違うなと思っていて、「『看護』という現象をどうしたら表すことが出来るのか」を達成するための1つの道具として現象学に巡り合ったんです。
—―田村先生が発信されている中で、「日本人は死を忌避しすぎている」というものがありますが、それも「現象学」というツールを用いて説明できるような気がするのですが、そのあたりはいかがでしょうか?
そうですね。
たとえば、エマニエル・レヴィナスというフランスの哲学者はそうした部分に関わっています。
あの時代の人というのは、ナチスドイツとの関係における「生き方」というのがあるので、「生き方をどうしていくのか」だとか「死」「神」というものを自分の思想のなかに取り入れています。
実は、先ほどの鷲田先生の言葉がレヴィナスの思想に基づいているものだということを知り、レヴィナスを読んだのですが、それがまた難しくて。笑
知り合いからはフランス語で読んだ方がいいよと本を頂いたのですが、さすがにフランス語は・・・となって断念したのですけれども。。。笑
少しご質問の内容からはズレてしまうかもしれませんが、、、
レヴィナスは、「顔の表情」ということに注目しています。
私たちは、亡くなっていく人たちの顔で「穏やかかどうか」判断している、と。
たとえば、呻吟(しんぎん)があったとしても、仮に眉間にシワが無くなっているなら、それは苦しさから呻きが漏れているのではなく、「死が近づいてきたときの声帯の変化」として捉えることが出来る、といったことです。
—―そうしたお話を伺っていますと、「忌避する」という表現がすごく適切な気がしています。何かこう、「科学的に見えるもの」が増えている一方で、「非科学的に見えるもの」が軽んじられているような印象を持っています。
そうですね、すごくそれは思っています。
自然科学が唯一の科学ではないというのは、大学に来てからも感じるところはあります。
理系に行くと、「この数字にどんな意味があるか」ということを聞くのですが、、、もちろんそれは悪いことではないし、重要な面もあります。
ただ、特に医療など「人」相手の分野に関しては、それだけではいけないのではないかと思います。
さらに言えば、これからは高齢化が進むので、数値化できないものに価値を置いていかないと「お年寄りの人たちはみんな意味なく生きる」となるわけです。世の中から言えば「生産性」がゼロだし、と。
「人の命が何か」という点をもう一度考えたり、「人は亡くなっていくからこそ、今生きていることに意味があるんだ」といったところはもっと発信出来ていくといいなと思っています。
それは「ともいき京都」の活動にも関連しています。
患者さんたちは一度「死」と向き合っていて、だからこそ「生きる」ということにすごくこう、、、言葉は強いですが、「執着」しています。
そうじゃないと治療に打ち勝てないという側面もありますが。
他にも例えば、「がん対策基本法」についても、ちょっと違うなと思っています。
「がんになっても人は死なない」の全国規模の大キャンペーンが行われているような気がしていて。
もちろん、「死んだらいい」と思っているわけではないし、治療は治療として効くことが大切です。
そのことを超えて、「もともと人は限りある命を生きているんだ」という点をあまり謳わないままに「治療をして良くしましょう」「早くから緩和ケアをすれば長生きできますよ」といったことを訴えていて。
「いやいや、長生きしても人は『死ぬ』んですよ」といったところがすごく薄められた状態でキャンペーンがされていると思うので。。。
ですので、色んなところで、「死」」を隠蔽して、線を引いて「ここから向こうの人には関係あり。ここから手前の人には関係がないことにして、毎日生活しておこう」と。
何かそういった感じがしています。
→次回は、「『看護』に対する表裏2つの疑問」について!
これまで、田村先生の「現在」のご活動を軸にお話を伺ってきましたが、
次回は「過去」の部分を徐々に掘り下げていきたいと思います。
★ここまでで分からない用語はありませんでしたか? そんな方は・・・
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