わたしがアメリカで在宅ホスピスナースになるまで byラプレツィオーサ伸子

 

≪著者プロフィール≫ ラプレツィオーサ伸子

日本の大学病院で看護師として勤務後渡米、現在アメリカ人の夫、3人の子供と犬の世話に奮闘しながら、在宅ホスピスナースをしています。

少しでも日本のホームケアの発展に貢献したく、ここアメリカ東海岸から、在宅ホスピスの生の情報をお届けしたいと思います。

 

在宅ホスピスナース

 

わたしの看護師人生のはじまり

 

わたしが看護師になろうと思ったのは、中学2年生の時でした。

当時はまだ「看護婦」といわれていた時代です。

家族や周囲に看護師さんがいたわけでも、入院した経験があるわけでも、ましてや「キャンディー・キャンディー」に触発されたわけでもありませんでしたが、ある時、ふとそう思ったのです。

 

あれから30年余り。

不思議なもので、なぜかあの時の決意は揺らぐ事なく、現在アメリカ東海岸のペンシルベニア州フィラデルフィア郊外で、在宅ホスピスナースとして働いて18年目を迎えています

 

あなたの「看護師人生のはじまり」はどんなものでしたか?

 

訪問看護師になりたい、なれない病院勤務時代

 

絶望感・焦燥感

 

さて、そんな風に看護師としての道を歩み始めた私ですが、さっそく難関が待ち受けていました。

どういうわけか、“これからは在宅ケアの時代が来る”と信じ、もともと訪問看護をしたかった私は、保健師の免許をとった後、まだ珍しかった訪問看護部がある病院に就職しました

しかし、慢性的な看護師不足で、病棟勤務から訪問看護部へ移動する事はなかなか難しく、整形外科で一年、その後は神経内科で、三交代勤務に明け暮れる毎日でした。

 

病棟での仕事は好きでした。

しかし一方で、訪問看護をしたいという気持ちは変わりませんでした

それどころか、神経難病で亡くなるまで入院生活を余儀なくされる人達に出会い、この人達が家に帰ることが出来るような在宅ケアシステムがあったらどんなにいいか、と忸怩たる思いをした事で、ますます在宅ケアへの思いを強くしていったのです。

 

そして、3年目を迎えたときでした。

当分の間、訪問看護部への移動はありえないということが判明したのです。

それは、絶望感や焦燥感となり、そんな思いにさいなまれる日々を送ることになってしまいました。

 

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ある雑誌との出会い/「思い立ったが吉日」

 

そんな毎日を過ごしていたある日のこと。

たまたま立ち寄った書店で、ある看護雑誌の創刊号を手に取りました。

そこには、海外留学を目指すナースを応援するグループを立ち上げた「ある看護師さん」が巻頭で紹介されていました。

その雑誌を読んでいるうちに、こう思ったのです。

 

ああ、留学という手があったんだ!

「いま勤めている病院で異動させてもらえるのを待っているよりも、より進んだ在宅ケアのシステムを持つアメリカで学び、それを日本に持って帰ってくる方が、よっぽど建設的なんじゃないか?」

 

思い立ったが吉日。

早速留学に関する資料を集め、NHKの基礎英語のラジオ講座を聞き始め、三交代の合間を縫ってTOEFLの勉強を始めました。

それまで海外留学など考えた事もなく、ましてや英語が得意だったわけでもないのに、まさに恐るべし、一念発起の威力。

わたしは約1年の準備期間で、無謀にもアメリカの大学に留学するという暴挙に出たのです。

 

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